T.E.Lawrence's Broughs.

T.E.Lawrenceは、1922年から1935年の間に7台ものBrough Superiorを乗り継いだ、彼はG.broughあての手紙の中で自分のBroughを乗り換えた順に George1〜7と記述している。事故を起こし死亡した時に乗っていたBroughは、George7(ジョージ7号)であった。実際には、乗ることが無く、事故の際にすでにオーダーを受けBrough Worksで準備されていたSS100は、George8とよばれている。


ジョージ1号

我々が知っている唯一の確実な情報は、ジョージ1号はMark 1型であったということである。
これは1926年9月26日付けのジョージ・ブラフへの感謝状に書いてある。
ジョージ1号についての最初の言及は、「暇の時にロンドンに行きたいので、モーターバイクを買いました」とE・ガーネット氏宛ての1922年11月22日付きの手紙に書いてあった。
この手紙は、T・E・ローレンスが英国空軍のファーンボロー基地に属していた頃に書かれた。
確実ではないが、ジョージ1号はMark 1型のSV(サイドバルブ)モデルであったと推測できる。
なぜなら、1922年だけでも、多く(少なくとも80台分)のワークス・レコード・カードがあるからである。
最初のB.S.型Mark1O.H.V(オーバーヘッドパルブ)モデルは非常にわずかに作られたものであった。ワークス・レコード・カードも残されていない。

建築士であるH・ベーカー氏はロンドンのバートン通14に事務所があったが、1923年2月には、T・E・ローレンスは、その事務所の上にある屋根裏マンションに引っ越した。
その頃には、T・E・ローレンスは、まだジョージ1号を持っていた。
そしてその翌月、ドーセット州にあるボーヴィントンという野営地の戦車隊へ始めて配属されたときにも、まだ持っていた。
同月の31日には、ロンドンへ乗って行ったが、その帰りに野営地の近くに、前のタイヤが壊れたガラス瓶に当って破裂し、その弾みでジョージ1号は何かに衝突してダメージを受けた。

ジョージ1号はその事故後に売られたのではないかと思われている。
※Mk1は、ダイヤモンド・フレームと前方下部にまとめられた排気管が特徴であった。
Mk1S.V.
ジョージ2号

T・E・ローレンスがジョージ2号を入手した年月日は確実に知られていないが、たぶん、ジョージ1号の事故後の1923年4月であったと思われている。
ジョージ2号は、ジョージ1号と同じくMark 1 S.V.型であったこともあり得ないことではないが、初のSS.80型になったバイクの中の一つであった可能性が高い。
なぜなら、SS.80型は1922年の後半に登場し、1923年になったら、Mark 1型より台数が上回っていたからである。
ワークス・レコード・カードの数で分かるのであるが、1923年からは、Mark 1型のものが32枚しかないに対して、SS.80型のものが87枚ある。

1923年中には、T・E・ローレンスのジョージ2号と思われるB.S.はサイドカー付きであった。
サイドカーは、ソールズベリー、ウィンチェスター、ウェルズ、ポートランドビル、コルフィキャッスルなど地域へ戦車隊の仲間たちを連れて行くために付けられていた。
1923年6月付きの手紙では、「…前方を飛んでいる鳥を必死にさけようと、時速96.5キロメートルで路傍の芝へそれましたが、無駄でした。鳥がサイドカーにぼかっと突き当たってしまいました…」とT・E・ローレンスは言及したのでサイドカーが付いていたことが分かる。
同年の9月から、T・E・ローレンスはクラウドズ・ヒル・カテージという別荘を借りていたが、恐らく、ジョージ2号はそこに訪れる最初のB.S.であった。

ジョージ2号の終焉は1923年末にあった。
誰かが無断で借りたのであった。
1923年12月23日付きのB・ショー氏宛ての手紙には、「僕は休暇許可を得て汽車の切符を買わなければこの国を出ることが出来なくなりました。それは、愛車が、あるけものにこっそりと取られ、壊され、溝に捨てられたのです。ダメージが酷くて修理を施す仕様もありません。」とT・E・ローレンスが書いた。
1922/3 SS80
ジョージ3号

ウェアハム博物館には、T・E・ローレンスが持っていたブラフの一つが写っている一枚の写真がある。
その写真には、そのブラフは1924 SS.80単車で「RK 899」という登録番号が付いている。
またその写真を見ると、そのブラフは、ブランプトンフォークや電気式ライト、キャリヤーバッグ、スピードメーター付きハンドル等が付いている典型的な1924 SS.80型のものであったことも分かる。
ライファー氏という男の人がブラフに乗ってポーズをとっているところであるが、そのライファー氏はボーヴングトン野営地にある自動車修理工場の持ち主であった。
写真に付いている記述によると、T・E・ローレンスはその自動車修理工場に度々顔を見せ、ライファー氏と仲良くなっていたとあるが、それを疑う根拠がないであろう。

登録番号の「RK」では、写真のブラフは、サリー州クロイドン市ロンドン通ロイヤルパレードにあるアレンベネットモーター社から供給されたバイクではないかと推測できる。

S・ウァイントローブ著作の「Private Shaw and Public Shaw」(「T・E・ショーの私人面と公人面」との意)にある言及で、時的な確認がとれる。
「…1924年3月の初期に、ロンドンのスローン広場にあるロイヤルコート劇場で「Back to Methuselah」(「メトセラへの帰り」との意)が上演されていた。その演劇が非常に長かったので5部分に分かれて連続5日間1晩1部分で続けられていたが、彼は、非番になると新しいオートバイに乗ってボーヴングトン野営地からロンドンにぴゅーと飛んで来、どうにか2部分を見ることができた。」と述べてある。
T・ハーディ夫人が書いた1924年4月11日付けの手紙にも、「彼はインフルエンザにかかっているのに元気そうです。彼のオートバイはとてつもなく強力です。」とあります。
これでT・E・ローレンスが遅くともこの日までにジョージ3号を入手したことが確認されている。

T・E・ローレンスはR・グレーヴス氏に手紙でこのことを伝えた。
「普段は、僕の満足感を満たすことは、新鮮な空気を吸い景色を全体的に楽しみながら、時速95キロメートルくらいで穏やかにブーンと乗り回ることです。そんな穏やかな速度でも、周りの景色がぼんやりと見えてきて鮮明さを失うが、そのかわり、その景色を実感することができるようになります。ソールズベリー平原などで時速を130キロメートルくらいまで上げると、まるで僕の下に地表が形作られているところを感じます。土を積み上げて丘を造ったり、土を刳り貫いて谷を造ったり、土を伸ばして平地を造ったりしているは、あたかも僕であるような気持ちになります。僕の両側には、地表は海面のようにゆらゆら揺れたりうねったりして生き生きしてきます。この快感は、スピードによる報いであり、馬車などでは到底得られるようなものではありません。スピードによる喜びについて書くことになると、切りがありませんが…」T・E・ローレンスがこれを書きたくなったのは、ジョージ3号に乗っていたからに違いないであろう。

T・E・ローレンスの弟であるA・W・ローレンス博士は、1924年に相乗りでそのブラフの後部座席に乗っていたが、ポートランド島への険しい傾斜を登っていたところで馬力がぐーんと急増したときの気持ちは凄かったと語った。

1925年2月6日付きの手紙には、「この前の日曜日に遊びにバイクでヨークシャーへ行って来ました。平均時速は71キロメートルでした。」とT・E・ローレンスが書いた。

しかし、その翌月にジョージ4号がジョージ3号に取って代わった。
1925年3月25日には、「本当にすごい新規型のブラフが出てきましたよ。タイヤが絶えられれば時速180キロメートルも出せます。「思い切って£200を出してそれを買うことにしました。」とT・E・ローレンスが書いた。
1924 SS80
ジョージ4号

これはT・E・ローレンスの始めてのSS.100であったが、ワークス・レコード・カードで明白に確認することができない。
T・E・ローレンスがSS.100を買うことにしたことは、1925年3月25日付きの手紙で分かる。
それで、間もなく彼はそのSS.100を入手したことが推定できる。
A・E・チェンバース氏への手紙には、「僕のバイクは時速167キロメートルに合わせて調節されています。時速145キロメートルで走ってみましたが、風が激しくなって…」とT・E・ローレンスが書いたが、残念なことに、この手紙に日付がない。
J・バカン卿への1925年7月5日付きの手紙には、「水曜日の午後、僕はボアネルゲ君(バイクのこと、雷の息子というニックネーム)に乗って時速174キロメートルで走っていたことをご家族の方々にお伝えください。僕が転任されましたが、彼(バイクのこと)は、そのことで気が顛倒したようでした。」とT・E・ローレンスが書いた。
これで、7月1日にSS.100が存在したことが確認される。
この日には、T・E・ローレンスは英国空軍へ転任されたことを知ったので、手紙に書いてある「時速174キロメートル」をボーヴングトン野営地からの帰りに行われたことであると推定できる。

T・E・ローレンスがそれほど無理やりにスピードを出したことで、バイクにかなり慣れていたことが推測できる。
その時点で、既に2、3ヶ月間乗られていたことが考えられる。
だとすれば、バイクが遅くとも4月末にT・E・ローレンスのもとに既に届いたことになる。
T・E・ローレンスのものと確認できるバイクは皆、当時のロンドンにある代理店を通して供給された。(代理店は元々クロイドン市にあるアレンベネットモーター社であったが、経営権がロンドンにあるゴッドフリィズ社に買い取られた。)
従って、ジョージ4号も同じように供給されたと推測できる。

1925年8月に、T・E・ローレンスは、英国空軍クランウェル基地へ転任されたときに、ジョージ4号も持って行った。
同月の25日に、「こんどの土曜日から金曜日の一週間に僕はノッティンガムに行き、できればブラフさんに会います。僕の新しい1926 SS.100はブラフさんの工場に置いてあるのです。」とT・E・ローレンスが言及した。
しかし、実際にジョージ4号をジョージ5号と取り替えたのは8月のことであった。

T・E・ローレンスはジョージ4号を長くとも6ヶ月半という短い間しかもっていなかったが、なぜであろうか。
1925 SS100