Lawrence who rides Brough Superior.

1930年10月ブラフ・シューペリア・ワークスを訪れたロレンス(ジョージ6号)
1935年に撮影されたロレンスと1932年型SS100(ジョージ7号)
工場スタッフ、 テッド・レスター氏の回想禄によると、事故現場に行ってみると、緩やかなコーナーで経験豊富なライダーであるロレンスがミスを犯したとは、思えない。少年の乗った自転車がロレンスの目前で大きく進路を変更したのではないか、との記述がある。
ロレンスと談笑するブラフシューペリア創業者ジョージ・ブラフ、彼は優秀なエンジニアでありレーサーであった、写真では、I.S.D.Tに出場した際の事故による怪我のためステッキをついている。ロレンスは、1929年型SS100(ジョージ6号)に乗っている。

T・E・ロレンスは、砂漠の英雄、学者、著者、軍人であるとともに、熱心なモーターサイクリストでもあった。生涯の後半、彼の愛用した車はすべてブラフ・マシンであり、G・ブラフの設計、テストに協力する事もあった。

ロレンスの友人への手紙の一節、
「私はスピードの中で大気を飲むように味わい、流れゆく景色を楽しむ、60mphほどのスピードでも、日頃の雑事を忘れ充実した喜びを得ることができる。さらにスピードを上げて、例えばサリスバリー平原を80mphで横断するとき、あたかも大地が私の下で揺らぐように感じる。丘を持ち上げ、谷のへこみを作り平野を広げるのが自分の力のようだ。大地が生命を得て海のように大きく波打つ。これがスピードの与えてくれる報酬なのだ。」これは1924年に2台目のSS80(ジョージ3号)に乗っている時の体験であろう。

初めてのSS100(ジョージ4号)を所有した1925年7月には、「水曜日の午後私はバイクに乗って時速174Kmで走っていました。」と知人に手紙を書いている。

ロレンスは1935年5月13日友人からの手紙の返電を打つためにボヴィントン・キャンプの郵便局まで愛用のSS100(ジョージ7号)を駆って出かけていった、その帰り道モアトンの村道を走り登り勾配の左ブラインドコーナーを50mphに近いスピードでさしかかったとき、突然2台で併走する自転車に乗った二人の青年を認め、これを避けるために進路を変えたロレンスのSS100は1台の自転車に接触しコントロールを失い、ロレンスはブラフから振り落とされ路面にたたき付けられて道路右側のもみの木のところまで飛ばされた、ブラフは右側を下にして道路中央に倒れていた。ロレンスは頭部を強打して陸軍病院に収容されたが、6日後の19日の朝、昏睡からさめぬまま帰らぬ人となってしまった。享年47歳であった。

1991年[自転車に乗った二人の少年]の一人であったフランク・フレッチャー氏のインタビュー記事。
ロレンスのバイクと接触して後部を破損した少年の自転車(Photo: The last of T.E.Lawrence)

事故が起きた時期にプラフシューペリアの工場では、最新のSS100(ジョージ8号)が、ロレンスに納車されるために準備されていた、これは、親友であった作家ジョージ・パーナード・ショーと彼の妻シャーロットからの贈り物だった。
ロレンスはモーターサイクルライディングをこよなく愛し7台のブラフシューペリアを乗り換え、12年の間に走行距離は29万8千マイルに達したと言われている。
中日新聞に掲載された記事

ロレンスが事故を起こした際に乗っていた1932年型 SS100(ジョージ7号) 修復され現存する。1997年オークションの入札予想価格が200万ポンドと発表され話題を呼んだ。
ロレンスとブラフシューペリアの写真はこちらへ。

Thomas Edward Lawrence
(1888-1935)
ロレンスの乗り継いだブラフシューペリアのうち最初の1台はJAP(John Alfred Prestwich社)サイドバルブエンジンのMk1(1922年型)と推定される、※注1次にSS80を2台(1923・1924年型)乗り継ぎ、その後JAPオーバーヘッドバルブのSS100(1925・1926・1929・1932年型)を使用していた。ロレンスは、彼のブラフシューペリアを‘Boanerges’(ボアネルゲ・雷の息子という意味)という名前を付け、それぞれGEORGE 1〜7と呼んだ。※注2

実際にロレンスが乗ることはなく、事故の際にブラフの工場で用意されていたSS100(1935年型)は、GEORGE 8と呼ばれている。
このモデルは、JAP社の8-75JTOSレーシングエンジンを積み、ツインキャブにツインのマグネトーを装備して、75bhpを発揮する高性能車であった。
当時の工場スタッフのテッドレスター氏の回想録(ブラフクラブニュースレターに掲載)によると、ロレンスの死によって注文をキャンセルされたSS100(Reg.No:BTO308)は、英国留学中の日本の学生が大金を出して購入したと書かれている。ブラフクラブに問い合わせたところ、日本人が最初に購入したかもしれないが記録は残されていないということだった。
ジョージ8号の最後のオーナーとして、1938年にロビン・ミラー氏が乗車している写真が確認されているが第二次大戦後このブラフは行方不明となっている。

 
 ロレンス研究家、八木谷涼子氏のホームページ

    ジョージ5号(1926型SS100)に跨るロレンス
(1930年版カタログより)
(ジョージ5号)1926年型SS100 イギリス 国立肖像画博物館蔵
1989年に日本で催されたアラビアのロレンス展に展示された。(東京 西部アートフォーラム ・ 大阪 西部ホール)
(ジョージ7号)1932年型SS100 イギリス ビューリー・ナショナル・モーターミュージアムに展示されている。
※注1 ロレンスの1号車の特定については、G・ブラフに宛てた1927年9月の手紙の中に1922年に購入したジョージ1号は、古いタイプのMk1でした、との記述がある。1922年には、Mk1(OHV)とMk1(SV)が生産されていた。ファーストモデルのMk1(OHV)は生産台数が少なくワークス・レコード(工場生産記録)も存在しない、Mk1(SV)は、ワークスレコードカードにより同年79台の生産が確認されている。ブラフクラブの研究者は、これを根拠として、当時購入が容易であったMk1(SV)をジョージ1号と推定している。しかしながらよりスポーツ指向の強いMk1(OHV)をロレンスが好んで購入した可能性も大である。

※注2 ロレンスは、ブラフシューペリア社、社長のGeorge Broughのファーストネームを自分のブラフにニックネームとして付けていた。