George Brough and Brough Superior.

【217cc Werner 1901】

ジョージ・ブラウとブラウシューペリア

著者:アラン・ジョンソン

ジョージ・ブラウが始めてバイクに乗ったのは、百年近く前の、ある20世紀初頭の薄暗い夜明けの時であった。ジョージ君は長靴下をはいっている10歳の少年であった。父親はフロント・エンジン式の「ウェルナー」と名付けられた機械仕掛けの二輪車を入手したばかりであった、その仕掛けに白熱管式点火器(tube ignition)や飽和芯式気化器(saturated wick carburetor)も取付けられていた。ジョージは乗りたくてうずうずしていて、真夜中にその珍奇な仕掛けをこっそり家から押して去って行った。(ジョージ・ブラウは、1890年4月21日に生まれた)

家から約5キロメートルで離れたところまで押したところで、仕掛けに付いた原始的エンジンが掛かり、ジョージは高い位置に取り付けられた自転車用シートにぴょんと飛び上がった。これで、ジョージの70年にわたるバイクとの生涯が始まったのである。全世界の最も速い高品質なバイクの中に入る何台ものバイクも、ジョージの造り出したものであった。これよりジョージの生涯は伝説となった。

その日、ジョージが家に帰ってみると、内緒で乗り出したことが父親に知れていた、幸いなことに厳しくは罰されなかったようであった。16歳になったら、父親が造った「ブラウ」というバイクに乗ってノッティンガムで催された沢山のトライアルやレースに参加するようになった。経験を積むに連れ、数多くの金メダルを獲得できるようになった。ロンドン・エジンバラ往復ロードレースに3年(1910、1911、1912)連勝したので、結局、毎年授与される金トロフィーはもう返さなくても良いということでジョージに授与された。スコットランド6日間トライアルでも金メダルを獲得した。1913年には、父親が造った新型前後対向ツインに乗ってマン島ツーリストトロフィーのロードレースにも参加した。(ジョージ・ブラウの父親、W.E.ブラウは、1908年より1926年までモーターサイクルメーカーを経営していた)
第一次世界大戦中は、父親の工場では砲弾が生産されていたが、戦争が終わると、対向ツイン500ccブラウが再び生産され再び市場に現れた。しかし、ジョージはこの軽量高速バイクにはまんざら満足したのではなかった。色んな種類のバイクに乗ったことのあるベテラン選手になった故に、目指す物が何なのかが、はっきりと分かるようになってきたのである。

強力なVツインエンジン付きの軽量かつ最高品質のスポーツ・ツーリング用バイクを買いたがっている裕福な見込み客が多いのではないかとジョージは思っていたが、父親は思わなかった。ブラウ工場の3分の1はジョージの所有であったが、父親との意見の相違で、その分に相当する金額(当時£5千、現在約£10万)を貰い、ブラウ工場と別れた。1919年には、土地を買って小さな工場を設立しバイクの第1号の製作に着手した。

バイクを何と名付ければ良いかという難題があった。「ブラウ」というのは父親の生産したバイクの独占商標名だったが、ジョージも同じ商標名をどうしても使いたかったので悩みに悩んでいたのである。それで、ジョージと工場長のI・ウェブは、多くのイングランド人の男たちがくよくよする時にやることと同じようにした、即ち、近所の酒場へ向かった。ビールを二三本飲みながら要談していると、酒場の常連であるB・ブレイから提案があった。「ブラウシューペリア」(「優れたブラウ」の意味)と名付ければどうだいと。
適切な広告予算がなかったため、当時流行の長距離トライアルが催される度に、ブラウシューペリアを宣伝する手段としてジョージ・ブラウも参加した。スコットランドの6日間トライアルでもランズエンド岬の競技でも金メダルを獲得したので、注文がやっと入り始めた。

新しいサイドバルブ1000ccVツインのスポーツ型を開発し商品ラインに加えたが、それを宣伝するためにブルックランズサーキット(banked Brooklands track)での大会に参加し、ある5周エキスパートレースに優勝した。この時一周の平均時速は160キロメートルを超えていた。

当時は、引掛けリム式タイヤは、バイクが高速度に達するといきなり壊れてしまうことが多かった。1923年には、ジョージは「オールドビル」(ジョージの専用レーサーのこと)に乗って短距離レースで52連勝したところであったが、今回は、災いが訪れた。決勝ライン前36メートルのところで時速177キロメートルでタイヤが壊れてジョージがバイクから飛ばされたのである。
皮膚移植の手術を受けたりして入院期間がかなり長引いていた。小さい工場も倒産しそうになり、オールドビルにヘッドライト・テールライトを取付け、やむを得ず売ってしまった。だが、諦めないで格闘を続けたあげく、とうとう工場の運営を軌道に乗せることができた。1923年には、オールドビルの設計に基づいて製作されたバイク(時速129キロメートル保証)を「SS80」という名で登場させて大成功を収めた。当時の主要な雑誌には、SS80の高品質や性能についてのコメントが掲載されたが、SS80のことを「バイクのロールスロイス」だと述べてあった。ジョージは限られた広告を出すことができるようになってきたが、その「バイクのロールスロイス」が気に入って、広告のキャッチフレーズとして直ぐに取り入れた。

ハーレーダビッドソンやインディアン等大型ツインに乗って少なからず成功を収めたことのあるB・レヴァックという選手がいた。ジョージはレヴァック選手にブラウシューペリアを使ってみるように説得した。それでどうなったのであろう。レヴァック選手はブルークランズ大会で速度・距離の世界新記録を7つ打ち立てたではないか。おまけに、同1924年にフランスのアーパヨン(Arpajon)大会でのFIM世界新記録を2つ打ち立てた。1つは時速191.59キロメートルという単独スピード記録であり、もう1つは時速159.7キロメートルという側車付きスピード記録であった。
1925年には、ジョージは設計者・選手・製造者として知られるようになってきた。新しいオーバヘッドバルブ1000ccVツイン高級スポーツ型のバイクを開発し、それをオーストリアに乗って行って厳しいアルプス山脈トライアルに優勝した。この新型バイクは「SS100アルペングランドスポーツ」という商品名で市場に登場した。

ブラウシューペリアの有力なセールス・ポイントの1つはアフター・サービスが上等だということであった。1926年には、ある顧客は、1925年型のSS100バイクをオーバホールと調整をやって貰いに工場へもってきた。その翌日、バイクを取りに工場へ戻ってきて、バイクを見ると、新しいタイヤとリムが付いているのではないか。前に付いた引掛け式タイヤとリムが外され、新発売になったばかりのドロップセンター式(ウェル・ベース・リム式)タイヤとリムを無料で付けて貰ったのである。これも顧客の安全を図ってのブラウ社長からの命令に従っただけだと係りの工員が説明した。
ジョージは、「バイクのロールスロイス」というキャッチフレーズを使った度に、その表現を生み出してくれた雑誌のことをも必ず述べ加えた。それにも係わらず、ロールスロイス社の経営陣は抗議を繰り返し、ジョージの事務所へ代表者を送り、「ロールスロイス」に対する商標権侵害で訴えってやるぞと脅かした。テストした記者の表現であろうがなかろうが、ジョージのキャッチフレーズは違法だというのであった。

論議を避ける手段として、ジョージはロールスロイス社の代表者を工場内へ連れて行った。生産工程を視察させてやったが、ちょうど、白い手袋を嵌めている工員たちが、極極きらきら輝くきらびやかなオートバイを組み立て上げているところであった。ロールスロイス社の代表者は工員たちの至れり尽せりのバイクへの扱いを見て、ブラウシューペリアのことをまさしく「バイクのロールスロイス」だと承知せざるを得なかった。(あいにく、視察されたのはいつもの生産工程と違い、ロンドンでの年毎のオートバイ展示会に出す展示品が特別に磨き上げられているところであったが、ジョージはそれについて何も言わなかった。)
1927年には、ジョージ・ブラウは、顧客たち(「ブラウ族」や「仲間ライダー」等と呼ばれた)のために、「ブラウシューペリア・ラリー」を催した。400名以上、自分のブラウシューペリアに乗ってきて参加したが、彼等の目的はジョージブラウに会うことや新しいブラウシューペリアを見ることだけではなかった。もう一つの目的は、史上の最も名高い謎めいたブラウシューペリアのライダーである(議論の余地はあるが)アラビアのローレンスに会うことであった。

現在の中東やアラビアの政治的騒乱状態から見ると、イングランド人の考古学者であるT・E・ローレンスが、第一次世界大戦中にアラビアの各部族各派閥を統合してトルコ帝国を覆した反乱を起こすことができたとは本当に驚くべきである。ローレンスは、人目を引かない小柄な男でありがら、ヨルダン王国とイラク王国を殆ど一人で設立し、それぞれの国王も立てたのである。戦争が終わると、英国空軍の機械工になって脚光から姿を消した。と言っても、すっかり消したのではなかった。アラビアでの運動等について書き表したり、ホーマー著作の「オデュッセイア」を翻訳したり、T・ハーディやJ・ブカン、N・アスター、R・グラーブ、W・チャーチルなど著名な著作家や政治家と親しく付き合っていたりした。そして、世界最高の贅沢かつ高級なSS100ブラウシューペリアに乗ってビューと風を切っていたのである。

ローレンスはブラウシューペリアを連続7台所有し、12年間に合計約48万キロメートルを回った。1935年には、英国空軍を退職してまもなく、時速40キロメートルでSS100に乗っているところで謎めいた事故が起こった。通行方向に逆らって自転車に乗っている2人の少年を避けるために、ローレンスは急に片側にそれたが、その弾みにバイクから飛ばされて頭蓋骨を骨折して死亡したという説明で警察署が事件を片付けた。しかし、ジョージ・ブラウが調べた結果では、ローレンスが乗っていたSS100は、あんまり傷ついていなかったが、ハンドルの右端には細長く埋め込まれた黒っぽい塗料が検出された。これは他の乗り物がいきなり近づいて擦った時に取れたと推定された。その乗り物を見た何人の目撃者も査問で報告したが、乗り物は結局突き止められなかった。※(この話はフィクションの域を出ません、最近、存命する自転車の少年の一人のインタビューでは、他の乗り物は、出てこないそうです)

ちょうど、劇作家G・B・ショーがローレンスに、8番目となる筈のブラウシューペリアを贈り物としてあげようとするところであった。バイクは工場でローレンスが取りに来るのを待っていたのである。
ブラウシューペリアの殆どはVツイン型であったが、ジョージは幾つかの4気筒型も設計した。1927年にはV型4気筒を開発し、1928年には直列空冷4気筒を開発したが、世界大恐怖の影が顕れ始めたので生産に移さなかった。1932年には、直列水冷4気筒を限定品として生産した。シャフト駆動や電気起動など機能もあり、間隔を狭く配置された側車用の2つの後輪も取付けられた。

1930年代の世界大恐怖による大不況はオートバイ業界を無残に襲った。アリエルやトライアンフ、AJS、インディアンなど大手企業も財産管理され再組織された。ヘンダーソンやクリーブランド、ローリー、ハンバーなど製造者はばったり姿が消えた。ジョージ・ブラウの小さなノッティンガム工場は、金持ちの顧客のために高品質な製品を生産していたが、株式市場の大暴落と相次いで起った銀行破綻では金持ち顧客というものが殆ど存在しなくなった。大不況の深刻な時期であった1932年9月から1933年4月までの間には、14台しか売れなかった。大不況がなければ同期間中に150台もの台数が売れたはずだった。
ジョージ・ブラウは、深刻な経営難に苦慮していたが、不思議なことに、カナダのR・B・ベネット首相が持ち出した政策のお陰で状況が変わった。1932年にカナダのオタワ市で行われた英帝国会議では、ベネット首相はイギリスをはじめ全英連邦を強制して「英帝国特恵関税」を受け入れさせた。その政策では、イギリスは英連邦から輸入される農業生産物を一般税率より低い税率の関税で扱うことになっていたのに対して、カナダ、オーストラリア及び他の英連邦諸国はイギリスで製造された商品をそれと同じ特恵関税で扱うことになっていた。

その結果、カナダとオーストラリアでは、英連邦に入っていない米国から輸入されるオートバイに対して関税障壁ができた。その上、カナダのドルも切り下げられたので、カナダではハーレーダビッドソンやインディアンの商品価格は44%まで上がってしまったのである。

ジョージ・ブラウは直ちにこの好機を利用した。警察等のタフナッツ(Tough Nuts)向けの特別型をわずか2ヶ月で設計した。設計したのは「11-50スペシャル」と名付けられたSVエンジン1100ccの60度Vツイン型であった。手でシフトするタイプも足でシフトするタイプも提供し(カナダ警察は手でシフトするタイプとなったインディアンとハーレーダビッドソンに慣れきっていた)、足載せ台(アメリカの伝統)も別売で提供していた。価格はC$595(£100stg.未満)に値下げされた。バイクはカナダのトロントにいる輸入業者P・A・マックブライド氏によってその価格で販売されていた。

モントリオール市警察署にもウエストマウント市警察署にもブラウシューペリアを何台も売り、オンタリオ州警察パトロール隊の警官たちにも何台も売った。

カナダへもオーストラリアへもそして南アメリカ国々へも、数多くのブラウシューペリアを輸出した上に、地元の英警察にも側車付きタイプを数多く売った。

やはりこの時期に大不況に耐えていた。アソシエイテド・モータサイクルズ社 A・M・C(AJSとMATCHLESSの製造者)が製造したSVエンジンとOHVエンジンを取付けることによって、SS80とSS100をアップグレイドした。1920年代には一般バイクになかったリア・サスペンション(ドレーパー・サス)という特徴がオプションとしてブラウシューペリアにあったが、このビッグツインの豪華さを更に増すために、ジョージは新型プランジャ・リヤ・サスペンション装置を設計した。
ジョージ・ブラウは、まだ長距離トライアル大会に側車付きバイクでよく参加していたし、ベテラン選手向けのロンドン・ブライトン競走にもいつも参加していた。超高速でぶーんとマシンを飛ばしていたのは後援を受けるライダーだけであったが、中には、R・ストーリやE・バラグワナス、B・ベリー、N・ポープ等がいた。(R・ストーリは工場試験をも行っていたあの選手である。E・バラグワナスはブルークランズから来る、ライダースーツの下に必ずウィングカラーとネクタイをしていたあの選手である。B・ベリーは1960年代に入ってもペンダインコースの新記録を続けて打ち立てていた選手である。そして、N・ポープは閉鎖中のブルークランズトラックでの時速199.216キロメートルのラップ記録を保持していた選手である。)しかし、ブラウシューペリアを使う超高速マンの中のエースは、やはり、過給されたブラウシューペリアで世界スピード新記録を2回も打ち立てたE・ファーニハウであった。1回目のは1936年につくった速262.08キロメートル記録であり、2回目のは1937年につくった時速271.68キロメートル記録であった。

1938年には、ジョージ・ブラウは4気筒シャフト駆動の新型オートバイを設計し、それを「ゴールデン・ドリーム」と名付けた。しかし、数台のプロトタイプが試験段階に入ったところで、第二次世界大戦が起ってしまったので5台のみの生産に終わった、その後工場は、速やかに製造をがらりと戦争用品に切り換えた。即ち、ハリケーンやスピットファイアなど戦闘機に動力を供給するロールスロイス・マーリン製エンジンに使うクランク軸およびカム軸の生産に切り換えたのである。最後に製造したブラウシューペリアはカナダ宛ての11-50型3台であったが、1940年4月11日に工場から出荷されたのである。
戦後になって、数種類の異なった設計のプロトタイプが試験されたとはいえ、国家経済の悪状態に妨げられ、ジョージが作りたかった種類のバイクを生産することも、それを満足するような高品質にすることも出来なくなったのである。アフターサービスとして既存ブラウシューペリアを整備していたが、その程度だけであった。後は、ノッティンガム工場はきっぱりとオートバイ業界と手を切り、エンジニアリング請負業者に転業した。※(1955年11月までレストア工場として専門誌に広告を出しています。J・N・C日本二輪史研究会より)

そんな時代背景でも、オートバイ業界はジョージ・ブラウのこともブラウシューペリアのことも忘れはしなかった。高品質を目指した結果、非常に丈夫なものを生産したが故に、1940年に生産が終わったものが1958年になっても数多くのSS80も11-50もSS100もぴんぴん動き回っていた。その1958年において、イングランドにいる少数のブラウシューペリアの持ち主たちは「ブラウシューペリア・クラブ」を始めた。本年(1998年)はクラブ設立40周年の記念に当たる。
1959年には、イングランドにある「ビンテージ・モーターサイクル・クラブ」を始めた「ティッチ」と呼ばれるT・アレンは、ジョージの1923年に乗っていた「オールドビル」というレーサーを発見して修復した。あの53回目の短距離レースの最中にジョージがオールドビルから飛ばされた。アレンは36年ぶりにジョージをあの歴史的に有名なバイクと再開させることができた。そしてジョージは1923年の事故現場から決勝ラインまでオールドビルに乗り、あの悔しいレースをとうとう完走することができたのである。そのことでライダーとして引退していたジョージは再びライダーになり、「ブラウシューペリア・クラブ」の後援者になった。

ジョージは1970年1月12日、79歳でこの世を去ったが、死亡する数ヶ月前に、ツーリストトロフィーの選手たちや元花形選手たちの行進に加え、4気筒の側車付きブラウシューペリアに乗ってマロリーパーク・レース場を回っていた。観衆はジョージ・ブラウが、無難にバイクを操るところを見たが、ジョージの両目が殆ど見えなくなっていたことを観衆の大部分は知らなかった。相乗りをしている友人のアレンが、角を曲がったりするために後ろから指図をしていたのである。

1919年から1940年までの間には3千台のブラウシューペリアが生産されたが、その中の1千台以上はまだ存在する。ブラウシューペリア・クラブの22ヶ国に住むほぼ4百名の会員は、今日も、ジョージ・ブラウが79年前に設立した小さなノッティンガム工場から出てきた「バイクのロールスロイス」に乗り続けている。
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